ボルダーボーイズと川端康成
NHK映像バタフライ太平洋戦争 “言葉”で戦った男たちをみました。
太平洋戦争開始後すぐに米軍が開設した日本語情報士官学校の卒業生は、学校のある場所にちなんでボルダーボーイズと呼ばれました。その紹介の戦後の日本文化への貢献を紹介する番組でした。日本語の勉強を重ね、戦時中は日本の暗号解読にも携わっています。この時点で日本は負けていたのかもしれませんね。
アッツ島の玉砕でも日本兵は米軍の予想どおりの行動をしたということです。
◇まず、テルファー・ムックは戦時下のテニアン島で捕虜になった日本人のために小学校を作りました。集団自決の島ですから、生き残って捕虜になったら学校を作ってもらうなんて想像もしなかったでしょうね。以外にも日本人が反対したことがあって、それは女子にも均等に教育したことです。まだ、遅れていたんですね。そのときに優秀だった女の子は、戦後学校の先生になりました。1991年テニアンスクール同窓会にムックは招待されて日本語で挨拶しました。とても感動的な会だったでしょうね。
◇オーテス・ケーリは小樽生まれです。自分が情報士官になることがかえって日本のためになるという考えで自ら志願したそうです。アッツ島にも行っています。「真珠湾収容所の捕虜たち」という著書もあります。捕虜には、「武器をすてたら敵ではない人間同士」という趣旨の言葉をかけています。こういう人が持っている考え方が、戦中の日本にもあればよかったですね。進駐後は高松宮殿下に進言したことがきっかけで昭和天皇の巡幸が行われました。敗戦後なのに天皇は各地で大歓迎を受けます。映像を見て驚いたのは、SPや警護が見当たらないことです。国民から敬愛されていたんですね。国民の間では、東條が悪者だったようです。ケーリは同志社大名誉教授になっています。
◇サイデンステッカーは戦後佐世保に駐留します。働く日本人の姿をみて「彼らは必ず世界に伍して恥ずかしくない国民になる」と感じたそうです。退官後東京大学に籍を置き日本文学の研究に打ち込み、小石川に住んで、谷崎潤一郎や三島由紀夫と親交しました。1968年に川端康成が日本人初ノーベル文学賞を受賞した際、「半分は翻訳者のもの」とサイデンステッカーに授賞式への同行を依頼しました。
◇ドナルド・キーンの戦後の活躍はあまりにも有名なためか、番組ではほとんど紹介されていませんでした。1953年、エリザベス2世の戴冠式出席のためケンブリッジを訪問した明仁皇太子(現・上皇)の案内役を務めました。1986年にはコロンビア大学に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立されました。2012年日本国籍を取得し、「キーン ドナルド」鬼怒鳴門に改名しました。
◇四人は、戦争で戦うために日本語の専門家となりましたが、日本人と日本文化を理解したからこそ、戦後も日本のためになる活動をして功績を残したのだと思います。もし戦前からこのような文化の理解と交流があったらと思います。文化の理解と交流が平和のために有力な手段であり、大切にしたいですね。
目次
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NHK映像バタフライ太平洋戦争 “言葉”で戦った男たちをみました。
日本語情報士官学校生は、ボルダーボーイズと呼ばれました。その中から四人が戦後の日本文化への多大な貢献をしました。
◇テルファー・ムックはテニアン島で捕虜になった日本人のために小学校を作りました。
◇オーテス・ケーリは高松宮殿下に昭和天皇の巡幸を進言しました。
◇サイデンステッカーは川端康成がノーベル文学賞を受賞した際、「半分は翻訳者のもの」とサイデンステッカーに授賞式への同行を依頼しました。
◇ドナルド・キーンは日本文化研究の第一人者であり、日本文学の世界的権威となりました。
◇四人をみていると、もし戦前からこのような文化の理解と交流があったらと思います。文化交流は平和のための有力な手段であり、大切にしたいですね。
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