GHQとマッカーサー
NHK映像バタフライ「GHQの6年8ヶ月マッカーサーの野望と挫折」をみました。
戦争に勝利したアメリカは日本の非軍事化と民主化をめざしました。1945年8月30日米軍は横須賀に上陸しました。飛行機は厚木飛行場でした。マッカーサーは特別機バターンでフィリピンから日本に来ました。重光の降伏文書調印で占領が始まりました。40万人のアメリカ軍を日本では進駐軍と呼びました。「鬼畜米英」といっていた米軍を多くの日本人は歓呼で迎えました。
もともと日本統治の方針の中で、ソフトピース(天皇制を残す)とハードピースが検討されていました。分割統治案さえありました。
マッカーサーの方針を大きく左右したのは、9月27日の天皇との会談でした。内容は明らかにしていませんが、マッカーサー回顧録によると昭和天皇は「戦争の政治的軍事的決断の責任を負う者として我が身を採決に委ねる」としたため、感銘を受けたとされています。会談は昭和20年9月から昭和26年4月まで、全11回にわたり行われたといわれています。
マッカーサーと昭和天皇の会談はほんとうに歴史を作ったのかもしれませんね。結局はソフトピースが選択されています。その後五大改革が行われます。「婦人参政権、労働組合復活、教育の自由化、圧政的諸制度の廃止、経済改革(財閥解体)」でした。
昭和21年マッカーサーの要請により「天皇人間宣言」をおこないます。マッカーサーは海外の天皇処刑説を否定し、東京裁判にかけない環境を作っていきました。オーテスケーリの進言もあり、天皇は8年半で46都道府県を巡幸しました。
日本の戦後の経済復興をみますと、マッカーサーの政策は間違っていなかった思います。
憲法では、日本側が作った案に失望し、GHQ草案を作らせ、その後現在の憲法が作られました。
日本統治で成功を収めたマッカーサーはアメリカの大統領戦のため共和党代表選に出馬し、惨敗します。
中国の建国を機に、マッカ-サーは反共産主義への方針転換を迫られます。反対はしたのですが、結局公務員のスト権を剥奪します。民主化の逆コースが始まります。朝鮮戦争が始まるとマッカーサーは国連軍の司令官となり、日本の米軍を投入します。その間、警察予備隊ができます。朝鮮戦争で核の使用を要請したためか、昭和26年マーカーサーは、解任されます。帰国にあたり沿道には20万人が駆けつけます。マッカーサーは連邦議会で退任演説を行います。有名な「老兵は死なず、消え去るのみ」というセリフで始まります。その中で、「日本ほど穏やかで秩序ある勤勉な国を知りません。日本ほど将来人類の進歩に貢献することが期待できる国もないでしょう」とも言っています。
昭和27年4月28日日本は独立し、占領が終了しました。
マッカーサーは今の日本の骨格を作りました。そこに昭和天皇が影響を与え、また意のままに日本を統治したあとに、日本の国民性に感動して触れています。こういう歴史をみますと、国の方向性を作ったのはマッカーサーですが、それを実現したのはほかでもない日本人なんだなあと思います。
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NHK映像バタフライ「GHQの6年8ヶ月マッカーサーの野望と挫折」をみました。
マッカーサーは単に占領したのではなく、日本の非軍事化と民主化を実現し、戦後日本の方向性を決めました。退任演説で日本国民への評価と期待を述べました。また、マッカーサー統治方針には昭和天皇が影響を与えました。国の方向性を作ったのはマッカーサーですが、それを実現したのはほかでもない日本国民なんだなあと思います。
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